安倍晋三元首相の国葬 大義欠き分断を露呈した

 
安倍晋三元首相の国葬が東京・日本武道館で行われた。
首相経験者の国葬は1967年の吉田茂元首相以来、戦後2度目で、極めて異例だ。国民全員に事実上弔意を強いる国葬は憲法が保障する思想・良心の自由を侵しかねず、実施に関する明確な法的根拠はない。

安倍政権は憲政史上最長に及んだとはいえ、森友・加計学園問題や桜を見る会の疑惑などで評価が分かれる。安倍氏を特別扱いすることに疑問を抱く国民も多い。国葬への世論の賛否は割れ、立憲民主党の執行部や共産党、社民党などは欠席した。

首相経験者の葬儀で、これほど国論の二分する中で実施された例があっただろうか。むしろ国民の分断を深めたと言うほかない。国葬の費用は全額国費で賄われる。税金の使い道を国民が監視するのが民主主義の原点だ。

国葬を強行した岸田文雄首相は国会などで説明を尽くさなければならない。それが分断を修復し、民主主義を守る道である。

■首相の言葉むなしく

岸田首相は国葬で「あなたが敷いた土台の上に、持続的で全ての人が輝く包摂的な日本、地域、世界をつくっていくことを誓う」と追悼の辞を述べた。国葬を巡る賛否の対立を考えると、誰をも包み込む「包摂」を語る首相の言葉がむなしく響く。

首相は国葬を行うことで「民主主義を断固として守り抜く決意を示す」と語ってきた。だが、首相は国会の関与もないまま閣議決定で実施を決めた。国会の閉会中審査でも、長期政権を担い内政外交で多大な功績があったなどと同じ説明を繰り返すだけで、かえって反対派を増やした。

民主主義の基本である納得を広く得る努力に欠けた。そもそも、政治家の評価は称賛ばかりとは限らない。吉田元首相の国葬の際も反対の動きがあった。その後、国費負担を一部にとどめる内閣・自民党合同葬が定着したのは、いわば政治の知恵だろう。

安倍氏の政権運営は国会での説明や丁寧な手続きを軽視し、強権的な手法が目立った。このため、民主主義の土台を破壊したとの批判が根強く残っている。長年の慣例を破り、説明を欠いた岸田首相の態度は、安倍政権時代から変わっていないと見られても仕方あるまい。

■弔意の強制性拭えず

政府は「国民一人一人に喪に服することを求めるものではない」として、各府省に弔意表明を求める閣議了解を見送った。ただ、各府省は葬儀委員長を務めた首相の決定に基づき、弔旗の掲揚や黙とうを行った。

これにならい、ほとんどの都道府県が弔旗や半旗を掲げた。政治的中立性が求められる教育現場でも、帯広畜産大などが掲揚した。やはり国葬という形式をとれば、政府の決定として地方に弔意を強いる側面は否定できない。

国葬には道内から鈴木直道知事と秋元克広札幌市長が駆けつけ、全国の首長の多くが参列した。政府が招待状を送って踏み絵を迫ったに等しい。賛否の割れる儀式に唯々諾々と出席する姿は地方自治の趣旨にそぐわない。主体的判断で欠席した首長もいた。

公費による首長の参列には反対の声が上がる。地域で分断を広げないよう、首長も出席理由などを丁寧に説明すべきだ。首相は国葬に合わせた「弔問外交」で、30カ国以上の首脳らと会談するという。

だが、カナダのトルドー首相が直前に訪日を取りやめ、先進7カ国(G7)首脳との会談はゼロになった。首相が国葬実施の理由に挙げた外交成果は乏しい。各国首脳が集う国連総会と日程が近く、あらためて首脳級と外交課題を深く議論する機会としては意義付けが曖昧だった。国葬を正当化するための後付けの理由だったと言うほかない。

■国会で議論を深めよ

政府は国葬の費用について、当初2億5千万円としていたが、総額は概算で16億6千万円程度と公表した。野党はさらに膨らむ可能性を指摘している。来月3日に召集される臨時国会の審議では、実際にかかった経費の細目を厳しくチェックする必要がある。

安倍氏の銃撃事件をきっかけに、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民党との不透明な関係が明るみに出た。教団の票を差配していたとの証言もある安倍氏との関わりも含め、実態解明が欠かせない。

今回は首相の身勝手な独断が混乱を招いた。一連の経緯を検証し、首相経験者らの葬送のあり方を根本から議論してもらいたい。